禁断の読書会
「読書会」と聞いて何を思い浮かべますか?
読書が好きな人たちが集まり、1冊、または複数冊の本について語り合う場。
そこでは自由に感想や意見を交わすことができる。
私が思い浮かべていたのはそういうイメージです。
でも、もしそれが許されないことだったら。
自由を奪われた人たちの集まりの場だったら。
今回紹介するのは、読書会という場所に自由を求めたいた人たちが出てくる本です。
アーザル・ナフィーシー『テヘランでロリータを読む』
イスラーム革命後のイランで暮らした著者の文学的回想録。
弾圧のため大学を追われることになった著者は、後に「私の娘たち」と呼ぶ女子学生7人とともに密かに自宅で読書会を行う。
ナボコフ、オースティン、フロベールなどイランでは禁じられた西洋文学の数々を取り上げ、意見や感想を交わしていく。
自由を奪われた女性たちにとってそこはかけがえのない場となっていく。
私が本に向かったのは、それが私の知る唯一の聖域、生きのびるために、今や絶えず後退しつつある私の一部を守るために必要な避難所だったからだ。
読書は自由に楽しめる娯楽の一つだが、この著者や7人の女性のように読書に「自由」を求め、心のよりどころにしている人たちがいる。
文学によって、自分の感情や内に秘めているものを放出させることに喜びを感じている人たちがいる。
著者は大学に勤めていた時、受講生たちにこう話している。
小説は寓意ではありません。(略)それはもうひとつの官能的な体験なのです。その世界に入りこまなければ、登場人物とともに固唾をのんで、彼らの運命に巻きこまれなければ、感情移入はできません。感情移入こそが小説の本質なのです。小説を読むということは、その体験を深く吸い込むことです。それを忘れないで。
著者に文学があってよかった。
「私の娘たち」に読書会というシェルターがあってよかった。
私はこういう世界もあるのだと知るために、これからも本を読んでいこうと思います。