「愛情」だけでは家族になれないのか
今日、映画『チョコレートドーナツ』を観ました。
以下感想です。
ネタバレも含まれます。
歌手を夢見ながらショーパブで歌うルディ。
そこに客として検事局で働くポールがやって来る。
一目見た瞬間から2人は恋に落ち、交流を始めていく。
ルディの住むアパートの部屋の隣にはダウン症の少年とその母親が暮らしているが、母親は育児放棄。ルディはその少年マルコを自宅に招き入れる。
そんな時、マルコの母親が覚醒剤所持で逮捕される。
施設に送られたマルコだったが、脱走し、ルディとポールに保護される。
マルコの状態に心を痛めたルディは、2人でマルコを引き取ることを提案する。
マルコの母親から養育権を得た2人はゲイのカップルであることを隠し、いとこ同士としてマルコを引き取り、3人で暮らし始める。
3人での生活はマルコだけではなく、ルディにもポールにも幸せをもたらす。
しかし、3人を待ち受けていたのは、差別や偏見という厳しい現実だった。
どんなに愛情を持ってマルコを育てようとしても、周りの目がそれを許さない。
ついには裁判で争うが、そこでも言葉の暴力でルディとポールは傷つけられる。
心の繋がりだけを頼りに試行錯誤するが、現実は3人を苦しめるだけだ。
仕事を失っても、友を失っても、ルディとポールはマルコを苦しみや寂しさから解放するために戦い続ける。
結果として、この物語は悲劇を迎える。
法的に引き離されたルディとポール、そしてマルコ。
やっと家に帰れると喜んでいたマルコが連れてこられたのは、マルコの待ち望んでいた「家」ではなかった。
マルコはまたひとりぼっちになってしまった。
そして、マルコは「家」を探すため一人街をさまよう。
なぜ同性同士で恋をしてはいけないのか。
なぜ同性同士のカップルが子どもを引き取ってはいけないのか。
なぜ差別や偏見によって家族が引き離されなくてはならないのか。
この映画はたくさんの「なぜ」を問いかける。
同時に「もし」も。
もし同性同士でなかったのなら。
もし障害のある子でなかったのなら。
もし誰かが彼らに手を差し伸べていたら。
ラストのルディが歌を歌う場面。
そこでこの物語の最大の悲劇が語られる。
思わず手で口を覆ってしまった。
あまりにも残酷すぎる。あまりにも悲しすぎる。
涙が止まらなかった。
この映画の舞台は1979年だ。
今よりももっと「ゲイ」や「ダウン症」に差別や偏見があった時代。
いや、今もまだ苦しんでいる人たちがいるだろう。
私たちは知らねばならない。差別や偏見が人々にどのような影響を与えるのか。
それがいかに残酷なことなのか。
マルコはルディにねだる。
「お話を聞かせて」
「ハッピーエンドで」
改めて考えさせられることが多い映画だった。
観ることができてよかった。